年 代 | で き ご と |
1872 1906
1914 1932 1943 1945
1947 1949 1951 1959 1960 1964 1970 1971 1972 1973
1974 1975 1976
1980
1981 1982
1984
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1987
1988
1989 1991
1992
1994
1997 1998 2001 2010 2020 2021
| 明治5 39
大正3 昭和7 18 20
22 24 26 34 35 39 45 46 47 48
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平成1 3
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9 10 13 22 令和2 3 | 甚目寺小学校のもとになる学校ができる。 甚目寺村ができる。(甚目寺・萱津・森・春冨・新居屋・白鷹・東今宿の7つの村が一つになる。) 人口7700人 名鉄津島線が開通する。 甚目寺村から甚目寺町になる。 人口8300人 町のさかいが今のようになる。 大じしんがおこる。 近くの町が空襲でやける。 戦争がおわる。 人口10000人 公立尾陽病院ができる。 甚目寺中学校ができる。 耕地整理がおこなわれる。(上萱津) 伊勢湾台風が町をおそう。 上水道がはじめてしかれる。 人口15000人 耕地整理がおこなわれる。(下萱津~坂牧) 町章をきめる。 海部東部消防組合ができる。 県立五条高校ができる。 南小学校ができる。 新しい役場が今の場所にできる。 人口25600人 給食センターができる。 新しい甚目寺郵便局ができる。 東小学校ができる。 町民グラウンドが完成する。 西小学校ができる。 老人福祉センターができる。 甚目寺町憩いの家ができる。 南中学校ができる 町の木(くすのき)・町の花(きく)がきめられる。 中央公民館ができる。 町民憲章ができる。 町民プールができる。 資源ゴミの分別収集が本格的にはじまる。 甚目寺町民夏祭りがはじまる。 町民会館ができる。 歴史民俗資料館ができる。 コミュニティ防災センターができる。 甚目寺町憩いの家が「甚目寺作業所」に名前を変える。 町の歌(伝えておくれ)がつくられる。 「平和を推進する町」「交通安全を推進する町」「青少年健全育成推進の町」を宣言する。 東名阪自動車道(名古屋環状2号線高速部)が開通する。 海部東部消防署北分署ができる。 公立尾陽病院が新しくなる。 本郷憩いの家・南児童館ができる。 人口30000人 総合体育館ができる。 平成プロムナード・シンボルタワーが完成する。 第1回公民館まつりがおこなわれる。 森憩いの家・北児童館ができる。 甚目寺観音本堂が新しくなる。 総合福祉会館ができる。 第49回国民体育大会・家庭婦人バレーボール大会がおこなわれる。 甚目寺町防災センターができる。 新居屋憩いの家・西児童館ができる。 耕地整理がおこなわれる。(小路) 小路公民館ができる。 甚目寺町・七宝町・美和町の3町が合併しあま市ができる。 新型コロナウィルスの流行により学校3か月休校 タブレットが児童に一人1台ずつ配布される。 人口36900人 |

甚目寺観音の年中行事
[節分会]
2月3日または、4日。七難即滅、七福即生を祈願し厄払いを行う。
豆をまく順序 |
(1)おはらいを受けたい人は、申し込む。 (2)甚目寺観音の羽織を着て、本堂に入りお参りをする。 (3)ますの中にある豆を、地元の厄年を迎えた男の人たちで、甚目寺観音、荒子観音、 笠寺観音、龍泉寺の四方向に向かって「福は内」と4回まく。 (4)外へ向かって「鬼は外」と豆をまく。 (5)「シャノシャノシャ、オシャシャノシャ、ヨヨイノヨイ」と手じめをして終わる。 |
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[初観音大縁日]
旧正月18日に行われる大縁日
[九万九千功徳日]
旧7月10日。俗に桃十日とよばれ他では7月9日に行われるが甚目寺では古くより10日となっている。
甚目寺観音「50年目本開帳」が平成13年11月18日~25日まで行われました。 期間中は、多くの人でにぎわいました。 |

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「香の物まつり」 例年、8月21日萱津神社にて香の物大祭、漬込み神事として行われている。 また、熱田神宮への特殊神餞としても古来献進されている。 |
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「天王祭り」 7月第4土曜日に行われる。 旧津島街道を甚目寺観音から江上社まで 提灯車を引き、江上社にて神事を行う。 | 「子供獅子」 4月第2日曜日に行われる「献榊祭」、萱津 神社地内で行われる。
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ハンセン病の治療に一生を捧げた医師 |
故小笠原 登 博士 |
甚目寺小近くに円周寺という寺院があります。ここで、小笠原 登博士は、
1888年(明治21年)7月10日に小笠原篤実の二男(戸籍では三男)として生
まれました。長男は、秀実(戸籍では二男)。祖父の小笠原啓実は、円周寺
の僧侶であるとともに漢方医術を行い、らい病、淋病、梅毒、瘰癧、黒内障
の治療を得意としていたといわれています。
大正4年京都帝大医学科を卒業して薬物学を研究、大正14年皮膚科泌尿
器科に転じ、大正15年よりライ病を担当しました。
昭和13年、ライの診療及び研究施設として新設の皮膚科特別研究室主任
を拝命、昭和16年同大学助教授を任じられ、昭和23年まで在職しました。そ
の間、ライ病発病は感染よりも体質を重視すべきこと、ライは不治の病では
ないこと等の考えから、当時の強制隔離、断種に反対しましたが、邪説とし
て学会から葬り去られてしまいました。
昭和23年より豊橋病院、昭和32年奄美和光園、昭和41年退官、昭和45年
12月12日円周寺にて81歳の生涯を閉じました。戦前からハンセン病患者への差別と偏見に反対し、
献身的な外来治療をしていた小笠原博士の業績は、現在にいたってやっと評価されています。
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甚目寺町 円周寺 | 小笠原博士が眠る墓地(円周寺内) |

毎年甚目寺小において、甚目寺説教源氏節もくもく座に公演をしていただいています。
総合学習の一環として6年生や5年生の児童に、人形浄瑠璃を演じてくださいます。児童
はこの人形浄瑠璃をとても楽しみにしています。